スーパー牛小屋おじいさん

プロローグで語った橋本の部屋での生活は、延べ5年に渡った。
自分の意志ではなく決められてしまった新生活の場所は、どうにも好きにはなれなかったが、しかし、出来が悪い息子だからこそ可愛い、みたいな親心的感覚とでもいおうか、最終的には大変に離れがたい部屋となっていた。
そのアパートは大学まで歩いて15分で行ける距離、橋本駅までも15分ほど、という、ちょうどいいといえばちょうどいい立地で、窓の外は畑というのどかさ、さらにアパートの向かいには牛小屋がある、という、実家より田舎なんじゃないかというような所にあった。この牛小屋、なにせ牛さんたちが住んでいるものだから、牛さん独特の家畜臭がほんのり漂い、朝でも昼でも、アパートから出て自転車置き場に行くと低音の「モ~」が聞こえる、それがデフォルトの日々だった。その牛小屋にはいつもガリガリのおじいさんがいた。もちろん牛小屋の主だろうが、小柄でよれよれでひょろっと風に吹かれて飛んでしまいそうな風体であった。あるとき長野から車でやったきた母がアパートの前の道に駐車していたところ、私の携帯に警察から電話がかかってきて、「路上駐車をやめるようにと牛小屋の方から通報がありました」というではないか。これにはたまげた。まず、警察が私の携帯番号をどうやって知り得たのか、ということと、あの人畜無害みたいな赴きで働いているあのじいさんが路上駐車を警察に通報するような人物だった、という意外性、というか人は見た目じゃ分からない、という怖さをひしと感じた。それ以来、いつもなんとなく柔和そうな顔をしているじいさんを、私は真っ黒なメガネで見続けた。あのじいさんは、腹ん中では何考えてるか分からねえ、私は絶対に心許さないぞ、と心に決めた。
その思惑通り、じいさんとは会っても挨拶も何もせず、知らぬ存ぜぬの態度で大学4年間を過ごし、いよいよ卒業の時期となった。私は美大に通っていたので、卒業制作、というものが最後にあったのだが、4年のほぼ1年間をかけて制作していくものであるはずの卒制を、私はまったく作り定めることが出来ず、最後の最後まで迷たあげく、徹夜をしてでっかい木枠(額のつもり)を作ってその中に絵と写真を収めて何とか形にした(最低の出来だったが)のだか、出来上がったのが卒制提出期日のお昼くらい、という超バカ野郎な事態になってしまい、さらに部屋で組み立ててたものが予想以上にでかくて重いシロモノになってしまったがために、アパートの外に出せたはいいものの、ひとりじゃ運べない、という超絶バカ野郎なことになってしまい、期限の時間はもうすぐそこ、やばい、本気でこれはやばい、と、大きな木枠(額のつもり)4体を前に呆然としていたところ、ひょこっと現れたのは、あの牛小屋じいさんだった。そしてじいさんの牛小屋の前に停まる軽トラを見た私は、今までのじいさんに対する気持ちを一掃させてじいさんに泣きついた。今日は卒制の提出日なのだ、ここにおいてある巨大な木枠が卒制なのだが、持っていこうと思ったら重すぎて持っていけないのだ、だけどもう数十分で締切時間なのだ、でも持っていけないのだ、おじいさん、あなたの牛小屋の前にある、その軽トラ、本当に申し訳ないのだが貸していただけやしないだろうか?つまり、軽トラにこの巨大木枠を乗せて大学まで送ってくれないだろうか?お願いです、お願いです、というようなことを私はじいさんに訴えた。じいさん、いや、おじいさんは、にこにことした表情で私の話を聞き、そりゃ大変だ、送ってやる、送ってやる、乗りな!と、何の抵抗もせずにすんなりと、とても好意的に私の訴えを受け入れてくれた。藁や土で汚れた荷台に、作品が汚れちゃいけないからとシートだったっか布だったかを敷いてくれて、くそ重たい木枠を一緒に荷台に載せてくれて、私は軽トラ助手席に乗らせてもらって大学まで車を走らせてくれた。おじいさんは、私が思っていたような厳しい人ではなかった。助手席に座り、会話をしながら、「今まで偏見の目でずっと見ていて、ほんとに申し訳なかった」と思った。見ず知らずの私なんかのお願いを、自分の時間をさいて助けてくれている。しかも全く嫌な顔ひとつせずに。なんていい人なんだろう、と思った。大学の正門で門番さんに、「卒制を乗せているから車乗り入れてもいいか」と必死の形相で訴えたおかげか、すんなりと入れてくれ、牛小屋の軽トラは「入館証」をもらって美大の中を場違い感満載で駆け抜け、提出すべき教室のある塔まで乗り付けてもらい、急いで作品を降ろし、そこからなんとかひとりで運び入れ、最終的に私は提出期限を30分くらい越した時間で提出を終えたのだった。思うに、牛小屋の軽トラで卒業制作を搬入したのは、後にも先にも私しかいないんじゃないだろうか。美大のキャンパスで、しかもおしゃれな風漂うデザイン棟の前に乗り付けたこきたない軽トラとよれよれガリガリのおじいさんは、どう考えても違和感しかない光景ではあったが、そのときの私にとっては、軽トラは魔法の馬車で、おじいさんはスーパースター、命(卒業)の恩人以外の何者でもなかった。卒制を降ろして、デザイン棟の前で、「本当にありがとうございました」と超大急ぎで言った私に、おじいさんは「なんでもないさ~」とでもいうような感じでにこにこ笑って軽トラに乗って去っていった。大学を無事卒業出来たのは、文字通り、おじいさんのおかげ、だと思う。
その卒制の顛末について少し記すとすると、提出時間をオーバーして到着した私に、大学の助手さんは大慌てで一緒になって運んでくれたが、「なにより大切な卒制の提出時間を守らないなんて信じられない」という空気感が全身から溢れており、提出時間の遅れた分だけ採点にマイナスがつく、ということを告げられ、結果、とてもよくなかった、という、私のその後の人生においてトラウマとなる作品になってしまったのであった。
それにしても、である。スーパーおじいさんの存在は、卒業後、なぞの空白時間を過ごすことになったそのアパート生活において、私にとって大きな支えとなった。いざというとき、助けてくれる存在が近くにいる、ということは、それまでの一人暮らしにはない安心感を感じさせてくれた。その卒制の一件があってからというもの、おじいさんに会う度に、私は笑顔であいさつをした。おじいさんも、私を見ると笑顔であいさつしてくれた。そんな関係になれるなんて、偏見メガネで見ていた一昔前には考えられなかった変化であり、とても嬉しいことだっだ。
そのアパートから引っ越すとき、私はおじいさんに、「卒制のときは本当にありがとうございました」と伝えた。おじいさんは、へらへらと笑顔で、なんてことはない、という感じで受け答えてくれた、と思う。本当の所、はっきりとした記憶はないのだけれど、おじいさんはいつも、何に対してもへらへらと、笑顔で、なんてことないよ、という態度で一貫していた。深いこと難しいことは考えず、日々を流れるように生きている、そんな印象のする方だった。
あれから13年位経つが、おじいさんは今もあの場所で牛さんたちの面倒をみているのだろうか。あのアパートで、卒制の提出日に卒制を運ぶことが出来ずに困っている美大生を助けることは、もうないだろう。だって、あのアパートはもうないのだから。(数年前に行ったら、介護施設になっていた。。)でも、おじいさん、あなたはしがない女子美大生の卒業に、一役も二役も買ってくださった、卒業恩人なんだよ、と、しつこく私は言い続けたい。そんな恩人になるチャンス、いろんな人生あるけれど正直滅多に無いと思うよ、おじいさん、すごいよ、本当にありがとう、と、私は今も、改めて伝えたい。
大学のデザイン棟の前で、笑顔で去っていったおじいさんの目は、純朴で、きらきらとにごりのない目をしていたことを覚えている。そして、おじいさんの鼻から出ていた大量の鼻毛。私はあの顔をきっと忘れないし、忘れたくない、と思う。