図書館という名の扉

実家にいる頃から図書館は好きだった。
娯楽や情報量が少なかったあの頃は、図書館は貴重な情報箱であり、現実から少し離れることが出来るオアシスのような場所でもあった。そしてそれは東京に来てからも変わりなく、いや、今は「情報箱」というよりは、違う世界を見せてくれる「扉」のような存在であるなあ、と思っている。
例えば、ある晴れた水曜日の午後、私はいつも行く近くの小さな図書館へ赴いた。何を考えるでもなく書棚をうろつき、ふと停まった「ま」の段に、松尾スズキさんのエッセイを2冊見つけた。「人生に座右の銘はいらない」と「東京夫婦」という、興味を持たざるを得ないようなタイトルの2冊を、私は迷いなく手にし、図書館から帰るとすぐに読み始めたのだが、両方ともとても面白く、なにより松尾さんの書く文章に大変惹かれるものがあった。言葉の選び方や言い方は圧倒的センス、そして考えていることがとてもツボ、なのだ。笑いと切なさが共存しているような、過激な面と謙虚な面が同梱されているような、底知れぬ闇と軽薄さを併せ持つような、そんな感じが文章を通して感じられ、でも難しいこと抜きにしてとにかく面白い、興味深いと思わされた。そんな2冊を読んだものだから俄然松尾さんという人について興味が湧き、松尾さんが創っている演劇の世界も知りたくなり、いくつかネット検索してみたりして過去の映像を見たりしているうちに、これはもう現物を見るのが一番なのでは、という思考に至り、ついには大人計画の舞台のチケットの購入に至ったのだった。まさか、図書館ではたと出会った2冊の本が発端で、舞台を観に行くことになろうとは全く想像しえなかったことで、まさに図書館が新たな世界への扉となった、というそんなお話、その1でした。
その2。
ある晴れた土曜日の午後、私はいつものごとく延滞している本を返すべく図書館へ赴いた。なんとなく歯に衣着せぬタッチのエッセイが読みたい気分だったので、そんな作家いなかったかな、と思いながら書棚をうろついていると、そういえばナンシー関さんのエッセイを読んだことなかったなあと思いつき、探してみたのだがなかったので、取り寄せの手配をしてその日は帰り、後日届いたナンシーさんの本を読んだのだが、その中で高田純次さんの面白さについて触れた文章があり、それがなぜかとても気になってしまったので、そこに書いてあった当時のテレビ番組を動画検索してみるとなんとあった。なんでもある時代だなあと感心しつつ早速見てみるとそれがまあ本当に面白い。高田純次さんてなんて面白いんだろう。その番組とは、高田さんが司会を務めていたクイズ番組で、流れるようにくだらないことを宣い続けるその様は、一種神がかっているかのようで、いつから用意していた言葉なのか、それとも即興で言っている言葉なのか、分からないけれどどっちにしたって「なんでそんなこと思いつくんだろう」というような受け答えが次から次へと流れていき、その言い方も「別に何てことありませんし、だから何か?」とでも言うようなへらっとした軽さで言う、その一貫した軽妙な態度が絶妙に面白く、こうやって説明しようとすればするほどその面白さがしらけてしまうのだけれど、まあともかくあの人はなんておもしろいんだろう、と、高田さんの面白さにすっかり魅了、尊敬の念すら抱くことになるのであった。その後、もっと高田さんの勇姿を見たくなり、元気が出るテレビの動画なども拝見し、楽しませていただいたのだった。これもまた、図書館でナンシーさんの本を借りなかったら高田さんに行き着くことはきっとなかった訳で、図書館の底知れぬポテンシャルを見せられたこととなったのであった。
高校生の頃、図書館で借りた古伊万里の本を眺めながら、いつか東京の骨董市へ行きたい、と夢見ていた私は、その数年後にはその東京へ出て、そしてさらに数年後には骨董市へ行くことになる。夢をくれる場所だった図書館は、今は夢と同時に現実に直に関わってくれている。図書館で出会ったいろいろなものは、きっとたくさんのポケットを増やし、いいんだか悪いんだか分からないようなことでも肥やしとなって蓄積され、私という層を増やしてくれているのだと思う。そんな素晴らしき場所、図書館。これだけ素晴らしい場所なのに、利用料は驚愕の無料という恐るべきありがたさ。これからも、見知らぬ世界への扉として、足しげく通わせていただく所存である。